「究極の謎」
・この記事はAnotherVision Countdown Calendar2017の一環の記事となっております。
初めまして。AnotherVisionのロマと申します。
AnotherVisionでは3期の3年生です。
色々なコンテンツでスタッフロールを一行増やす仕事をしています。
具体的には謎を考えたり、謎で遊んだり、謎のスタッフをしたり、謎で遊んだり、謎で遊んだりしています。*1
色んな謎や謎以外に触れられるこの団体*2で、ふわふわ生きさせてもらっています。
2017年も残すところ2週間ちょっとです。皆さんやり残したことはありませんか?
今年のうちに出来ることは今年のうちにやってしまいましょう!*3
2017年も色々な謎解きイベントが行われてきました。
もちろんAnotherVisionでも様々なイベントを開催してきました。参加していただいた皆様の心に残るものであれば幸いです。
そして是非来年もAnotherVisionをよろしくお願いします。
さて、今回僕が書こうと思うのは、
「究極の謎とはどのようなものか」
というテーマについてです。
「究極の謎」と言っても大それたものを書くつもりはありません。こんな考え方もあるかもしれない程度に思っていただければ嬉しいです。
そして、そこから派生して、「ぼくのかんがえたさいきょうのなぞときげーむ」*4も提案してみたいと思います。
それでは少しの間ですがお付き合いください。
究極の謎とは
皆さんが思う「究極の謎」とはどのようなものでしょう?
それまでの全てを再利用する大謎?
あるいは、それまでの全てを逆転させることができる解き直し?
それとも、人体の神秘や自然の奇跡、そして、宇宙の真理?
いずれにせよ、「現在の人類には構築も解答も実現されていない」ものであることでしょう。*5
僕は「究極の謎」を「そこに謎がある/それが謎であると認識されていない謎」であると考えています。
本質的に誰にも解くことができない「究極の謎」です。
そして、僕はそれを誰もが作りだすことができると信じています。
“謎がある”という認識
それでは「謎」と「認識」について考えていきます。
そもそも「謎」って何でしょう?
各々が自分の「『謎』の定義」を持っていることでしょうが、ここでは「解答者がその情報の真意を“意識して考える”ことで解き明かすことができるもの」を「謎」と呼ぶことにしましょう。*6
では「謎がある」とはどういうことでしょう?
あなたは不可思議な文章/図形/イラスト/物体を見つけます。あなたはそれに「何らかの真意」があると確信し、その真意を見つけようとそれについて意識して考えます。
さて、あなたは「一見して意味の分からない情報」に「意味を見出そう」としました。
僕はこの行為を通じて初めて「謎が生じる」と考えます。謎は初めから“そこにある”のではなく、解答者がそれに向き合うからこそ生まれる、相対的なものだと思っています。
同じものを見ても、ある人はそれを単なる図に過ぎないと思う一方、ある人はそれに隠された真意を解き明かそうとします。
この認識の差異こそが謎というものを生んでいると思うのです。
謎はそれが謎であると認識されるからこそ謎たり得る、ということです。
認識されていない謎
話を「究極の謎」に戻しましょう。
前項の考えを採用するならば、僕が冒頭に提示した「究極の謎」は矛盾したものとなってしまいます。
認識されているものが謎になるのに、認識されていない謎とは一体どういうことなのか?
実はここまで「制作者」には一切触れずに話を進めていきました。
制作者はそれが謎であることを当然理解しています。むしろそこに謎があると知っているからこそ制作者であり得ると言ってもいいでしょう。他の全ての解答者がそれが謎であると認識していなくても、制作者だけはそこに謎があるということを認識しているのです。
制作者はその謎を、この世界で誰よりも早く認識することができ、さらにそれを唯一自分だけが認識しているものにできるという特権を有しています。
つまり僕の考える「究極の謎」とは、「制作者だけがその存在を認識している謎」ということに他なりません。
制作者だけしかその謎を認識していないのだから、解答者は解答のしようもありません。
言い換えるなら、制作者はその謎を作った瞬間においては、他の誰も認識していない「究極の謎」を独り占めしている、ということです。
謎を独り占め! なんと甘美な響きでしょうか!
自分だけが認識し、その真意を知っている謎。優越感ありますよね。*7
この「制作者」という概念は人類以外にも適用することができます。
未だ全人類が誰も認識も出来ないような「謎」の制作者が「神」であると考えると、「究極の謎」に相応しいような気がしませんか?*8
ぼくのかんがえたさいきょうのなぞときげーむ
ここから先は「制作者」が人間の場合、そして特に「謎解きゲーム」の場合について考えていきます。
そして趣味を全開にして語りますのでご容赦ください。*9
往々にして人間というものは自己顕示欲が強いものです。自分が制作した謎は日の目を浴びて欲しいと思うのが人情でしょう。「究極の謎」ですら世に出してしまいたくなるのです! このとき制作者は「出題者」となります。
また、「謎解きゲーム」は人に謎を解かせるゲームですので「クリア」が存在します。本質的に「クリア」できないものはゲームと呼べなくなってしまいます。
この2つの“障害”を乗り越えて「究極の謎」*10を出題するにはどうすればよいのでしょう?
突然ですが、僕はゲームのおまけ要素や隠し要素、やりこみ要素というものがとても好きです。本編をクリアした程度じゃそのゲームを遊んだとは言えないとすら思っています。
本編が終わってからもどれほど楽しみ尽くすことができるか、これが僕がゲームに求める最も重要なことの一つです。
謎解きゲームにおいてもこの考えは適用できると思っています。
「なるほど、脱出に成功しましたね。しかし果たして本当にそれだけでしょうか?」
僕はこのようなセリフを謎解きゲームの解説で聞かされるのがたまらなく好きです。予想だにしなかったところから殴られれば殴られるほど、鳥肌が立ち感動を覚えます。
認識できなかったものを目の前に顕現させられたときの衝撃は、脱出の成功/失敗の衝撃を超え得るものだと僕は思います。
出題者が解かせることを前提にしてない? 上等じゃないですか。
認識すらできないようなところに隠した? それでこそ燃えるってものですよ。
むしろ出題者が「究極の謎」を魅せる最高の機会じゃないですか。
僕は出題者が練りに練った「究極の謎」を解き明かしたいと思うし、僕自身も「究極の謎」を隠し通した「ぼくのかんがえたさいきょうのなぞときげーむ」を作りたいと思っています。
いつの日か「ぼくのかんがえたさいきょうのなぞときげーむ」が世に出た暁には、皆さんには”隠された真実”を見つけ出して欲しいと思っています。
最後に、僕がこの文章を書こうと思ったきっかけの一つとなった小説の一部を引用します。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
真に解決すべき問題は何も言わずにそこらに転がっている、あるいはどうか解かないでくれと隠れて震えている。
私たちはこれに気付かなければならない。
出されてもいない問題に気付き、解けると信じて行動した時にだけ、結果は訪れる。
引用:
『花果子念報コラム選その2』 南条
http://coolier.dip.jp/sosowa/ssw_l/212/1472356924